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徳について
和英の辞書を引いてみる。 徳:virtue 美徳・善行 例えばあまり難しく考えないことにしよう。 美徳ってなんだ? 善行って? ゴミをむやみやたらに捨てないとか、人のことを思いやるとか、そういったことだろうか。 そのこと自体が徳なのかどうかは解らないけれど、なるべくならこうしようと思っていることならある。 感謝の気持ちとでもいうのかな。そういう種類のもの。 僕は食事をする時になるべく手を合わせる。終わった後もなるべくならそうしようと思っている。 いつの日からそうしようと思い始めたかは憶えていないが、最近はしっかりと自分に定着している。 別に親に教えてもらったわけじゃあない。変な宗教に没頭しているというわけでもない。ただ当たり前のこととして感じたからだ。 僕は手を合わせるときに「いただきます」と言葉に出しながら心の中で「ありがとうございます」と呟く。 誰に感謝しているかといえば、その「食事をすることができること自体」に感謝する。自分がそうできるまでいったいどれくらいの時間が費やされているのだろうかと考えること自体が無駄な行為だと思われてしまうくらい。 例えば米を作ってくれた人に感謝する。運搬してくれた人に感謝する。商店に並べてくれた人に感謝する。 あるいはご飯の炊き方を教えてくれた人や、炊飯器を発明した人や、その茶碗を作った人や、感謝しなければならない相手ははたくさん過ぎて数え切れない。 そんなすべてに感謝の気持ちをこめて手を合わせる。 するとどうだろう! ご飯の味が一段とおいしくなる。その状況をこしらえてくれた皆の気持ちを少しづつもらうことでより元気がでる。 僕もがんばらなければと思うことができる。たったそれだけのことで。何事も気持ちの持ちようなのだなということが実感できる。 都市消費生活を送っているとそういったことを忘れてしまいがちだ。「カネ」の世界だからだ。 「カネ」に降りまわされてほんの些細なことに鈍感になってしまう。 「ありがたい」と思う気持ちさえ感じ取れなくなる哀しい心の持ち主になってしまう。 「徳」っていうのは一長一短に語れるものではない。そして自分にどんな徳があるのかなんて簡単にわかりはしない。 それは何時の間にかどこからか自分に染み付いていくもので、そして他が評価する種類のものだからだ。 でも「何が美しい」とか「何が善いことだ」と感じることは誰にでもできる。 そんなこんなをたくさん感じとって積み重ねていくうちに「徳」というのは備わってくるのではないかと思う。 なぜ今日本に(日本に限らず)非情に感じる事件や出来事が溢れているかといえば、そういった「感じる心」さえ持つことが難しい世の中だからだ。 必要なのはカネからの脱却。今の世の中それを100%実行するのは無理だが、確かに世の中の流れはそのベクトルへと動いているのではないかと感じる。 何か共産主義者みたいだな。だからといって別にそのカテゴリーに収まるような古い人間ではない。 時代の呼吸を身に感じることができれば、そんなぬるいことは言っていられないはずだ。何事も「気持ちの」持ちようだ。 うん、それでいいじゃないか、と思う。 |
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