リアシートのトム
闇夜のトンネルをひた走る車中にいた。
ヘッドライトの照らす視界は小さく、光のほとんどは暗闇に溶け込んでいた。
暗闇のトンネルを進む道は舗装されない直線で、道の両側は深緑色の草が群れをなして風にたなびいていた。

しばらく行くと、視界の中心辺りにひとつの小さな白い点が浮かび上がってきた。
点は次第に膨らみ始め、形態を帯び、それと確認できた姿は白シャツの男だった。
振り向きざまの形相がまず目に入り、次に側頭部のみを覆う薄い頭髪、シャツから覗く毛深い腕とどろどろに汚れたズボンから出た素足。
男は車に追われ、片足を引きずりながら時たま振り返り、必死に逃げていた。
僕自身追いかけているつもりはない。
どちらかといえば彼は僕からというより、追ってくる車のライトから必死で逃げている。

振りかえるとリアシートには白人が座っていた。
真っ赤な革ジャンはてらてらと光沢を放ち、骨の色をした肌はナルキッソスが覗きこむ湖のごとく透き通っている。
短く刈り込んだ金髪は刺さると痛そうに見え、視線を先に置く眼球は水色だ。
彼は僕が降り返ったことにまったく気付いていないか、あるいは無視していた。
苦しそうに見える彼はぼそぼそと何かを口ずさんでいた。よく聞けば何かの唄のようだった。

逃げる男との距離は変わらなかった。
彼の形相を僕は見ていた。
恐怖の先に控えるものを見ようともしていた。
男は足がもつれ今にも倒れそうになりながら、必死に走っていた。
とんでもなく恐ろしいものから逃げ出そうとする顔だった。
僕はトムに聞いてみた。なぜ、追いつかないのだろうか、と。
トムはフロントシートの間から顔を出し、口元にわずかな笑みを浮かべながら口ずさんでいた。


一定のリズムで彼のつぶやきは伸び縮みしていた。それは唄ではなく音だった。
音のたゆたいを彼は口ずさんでいた。


僕の質問には答えなかった。あるいは聞こえてなかったかも知れない。
彼の視界に僕は入っていなかった。

餌を求める象の鼻の動きで腕が伸びてきて、前方を指差した。
見ると逃げる男は肩で息をしながらこちらを向いて佇立していた。
車は既に止まっており、男の全身がハイビームに映し出されていた。
僕は車が止まったことにまったく気付かなかった。
大きく見開かれた目はまばたきひとつせず、こちらに向けられていたが、ハイビームでこちら側は見えないだろう。
男の目に圧倒されたかのように、急に車が後退しはじめた。
男の姿は小さくなっていき、20メートルほど下がったところで再び車は停止した。
道の真ん中に黒い線が見えた。よく見ると車の液体漏れの流れだった。
すると前方の男のそばで黄色い火花が散り、オレンジ色の炎がこちらに向かって急速に迫ってきた。
車は急発進し後退を続けたが、火の接近からは逃げることができず、視界は一瞬で炎に飲み込まれた。

既に炎は車内に潜入してきている。拡がりをやめようとはしない。僕は後ろを振り向いた。そこにトムの姿はなかった。


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Last update : 2002/5/3 update by Hiee