ひい

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オンガク探し

ぽっかりと空穴を開ける満月に、じりいぃっと見つめられて奏でられる眼差し の、静かなコトバは、「君を描いてあげよう。」と。
僕は卵黄を飲み、ぴりっと張り詰めた外気に出た。オンガクの場所に向かうた め、キシリトール・ガムを噛みながらスニーカー音に耳をやると、裸足で歩いた 自分が懐かしく思えた。


僕は当たり前のように敷かれたレールの上を歩いていた。いつの間にか見知っ た顔と共に先の見えない道を歩いていった。あまりにも足元ばかりを気にして歩 いていたためだろう、気付けば見知った顔はさよならも言わないうちにいなくな っていた。またね、ぐらいは言ったかも知れないけれど。
それでも僕は歩いた、もちろん今でも歩いている。卵黄を飲む前にブラウン管 ばかり見ていたせいか、目の前からいなくなってしまった顔たちは琥珀色だった 。琥珀色に慣れるために黄色いレンズの眼鏡をかけた。そうすると現在はすでに 過去だった。原色を忘れてしまうことにも慣れてしまっていたようだ。
彼らの誰かはキーボードで喋っていた。あるいは猿の出し入れをしていた。中 にはマシーン・ガンを持って生きるために殺していた。わからないことに麻痺し ていた僕はリモコンでチャンネルを変え続けた。目に見えないはずの数字が二進 法で飛び交っている。0、1、0、1・・・・。
番組終了、突然の砂嵐、ザザザザァーッ。予定調和の臨界は僕の手からリモコ ンを拉致していった。砂粒が目に入ったために、リモコンの行く末はわからなく なった。自由になった僕の両手だけが残った。目の前が一瞬真っ白になった。
でもそれはそれでよかった。自分の手さえもリモコン化するのはごめんだ、歩 き続けてきたことを納得できるだけでも幸運だ。たまたま僕のそばに来てそっと 耳元に囁かれた皆の助言があったからそう思える。すべては偶然であり、必然で あり、そんなすべてに僕は手を合わせ、感謝する。ありがとう、と。

リモコン化される判断を僕はしぶしぶ受け入れ、チャンネル化されることで僕 はたくさんのものを失うだろう。ただそんなこんなを恐れて、いったい何が始ま る? 僕は黄色い太陽を見つめ、ただ歩き続けるだけだ。
そのせいでもあるだろう、多くは僕から離れていった。気付けば僕はレールの 上をひとり歩いていた。寂しくもあったが、仕方がないとも思った。歩き、時に 走り、何かを見つけた地点から始めないと、まったく何も始まらないのだ。気付けば満月は見えない。そのうちにまた現れるだろうなと思いながら、僕は ただ歩くために歩く。


眩しいほどに紅葉する森に囲まれた河原を歩いていた。僕の歩くすぐそばに渓 流がからからと音をたたえているのだが、どう目を凝らしてみても渓流の流れゆ く方向がわからなかった。時に掴んだと思えばその瞬間に流れは水面を変え、落ち葉たちはその上で声を上げながらくるくると踊っていた。落ち葉のダンスを見 ていると、僕自身の行き先が上流側なのか下流側なのかはっきりとわからなくな った。さーさわさわさわー、と頭上に生きる葉群が肌に冷たいうすら風のメロデ ィーに合わせて唄をうたっていた。一枚一枚の葉はそれぞれがもちろんのこと異 なっていたが、視線を引けば同系色でまとまって見えた。まとまりは大きくもあ り、小さくもあった。すべての音楽を目にしながら僕は河原を歩いていった。
しばらく歩くと、向こう岸に画架を立て絵を描く人がいた。彼は麦わら帽をか ぶり、種まく人の身なりをしていた。集中するオーラの筆走に、僕の接近も蚊帳 の外だった。向こう岸にいるため細部は単色で、描いている絵は黄色い点だった 。
「すいませーん。」
試しに声をかけてみた。彼はまったく気付かない様子だった。何かに憑かれる ように筆を走らせる彼の姿を見て、なぜだかどうしても彼と話してみたくなった 。音楽を聴きに行くのか、と。
取りあえず気付くまでは待ってみようと、僕は近くにあったちょうどいい大き さの岩の上に腰をおろした。風景の低音部である岩は尻にひんやりと冷たかった 。

これから出会う音の予感に思いを奪われ、岩の温かさに気付くと、向こう岸の 彼は大きく伸びをした。それはそれはとても大きな伸びだった。僕も同じように 両手を組んで上に突き上げた。腕と背中からぽきぽきぽきという空気音が聞こえ た。血管に酸素が巡り、ううぅぅーんと言葉にならない声も出た。
僕の存在に気付いたのか、彼はこっちに顔を向けた。伸びを終えひと息つくま で僕は彼の視線に気付かなかった。僕が見ていると、彼もしばらくこちらの方を 見ていた。姿は見えるのに、彼の顔はおぼろげにしかわからなかった。どうして 見えないんだろう、と思いながら僕と彼は向かい合っていた。
すると彼は今まで描いていた絵を画架から外し、パレットを河原に置いて、絵 を持ったまま渓流に近づいてきた。ちらちらと見える絵姿は、こちら側からでは 細かいところまで見えず、黄色い四角形に見えた。よーく目を凝らしてみると、 そこには十二本の花が描かれているような気がした。でもはっきりとそのことに 確信を持つことはできなかった。ただ明るい色調の絵であることはわかった。
彼は流れのそばまで来ると、その絵を水面に浮かべた。描かれている面を下に してしまったために、絵に何が描かれているのかはすっかりわからなくなった。 僕も彼もしばらく浮かんでいる画布を見つめていた。そこは流れの澱みらしく、 画布は長い間そのままの状態でゆらゆらと揺れていた。そもそも僕自身流れが掴 めなかったことを思い出した。
すると彼は腰を下ろし、絵に向かって手を差し伸べた。彼は画布の端をちょん ちょんとつついて、流れに乗らせようと試みた。だが画布は澱みを行ったり来た りはしながらも、彼のそばからは離れなかった。何度かその行為を繰り返してい たが、とうとう彼は画布の端をにぎって水面から引き上げた。見えるかなとも思 ったが、こちら側には絵の裏面が向けられていたために色彩が刻まれた面は見え なかった。
水面から上げた絵を彼は見ていた。さっきより近い彼の顔も、絵の陰になって 見えなかった。しかし画布を持っている彼の手はわずかばかり見えた。頑丈そう な手はところどころ明るい絵の具に染まっていた。足元を見てみると彼は靴を履 いておらず、素足のままだった。僕もそうしてみたくなり、靴を脱いで裸足にな った。足裏にひんやりとした冷たさが伝わってきた。僕は足の指先で小石を弄ん でみた。単純に気持ちがよかった。
気付くと渓流のそばに彼の姿はなかった。絵は先ほどと同じように澱みの上に 浮かべられていた。すでに彼は画架の前で、おかげで彼の顔をはっきりと確認す ることはできなかった。彼は新しい画布を画架に立てかけ、次に取り掛かろうと していた。ひととおりの準備を済ませた彼は、再び絵の世界に入り込んでいった 。仕方なく僕はもうしばらく待つことにした。足先で小石をいじくりながら。指 と小石に気を取られていると、遠くのほうでクラクションのような音がした。

クラクションの主はジャックだった。土手を上がり車のそばまで行くと、彼は 僕を半ば強引に乗せ、思いっきりアクセルを踏みつけた。
「時間がない、早く行かなければ間に合わない。」
彼はつっけんどんにそう言った。僕は麦わら帽が気になっていたものの、助手席 に身を沈めながら時に相槌を打ちつつ、彼の物言いを聞いた。
「現代は過去よりも必ずしも幸福ではないということだ。」
それはよくわかる。
「物事は何でも反対の方にいけばかえって早く成功するのではないだろうか。例 えば金を得るには貧乏であろうとするのがよく、よい作品を得るには自分の作品 を壊すのがよいというふうに。」
難しいと思うけれど。
「文明には変化があるだけであって、進歩というものはない。」
それはどうなんだろう。
「困難だといって放棄するのは逃避の口実に過ぎない。困難だからといって放棄 するくらいなら、初めから何もしないほうがましだ。」
・・・・・・。
彼は出口のない不可能の領域の中を、会うたびにさらに遠くまでまっしぐらだ った。
僕は途中で寄るところがあると言って車から降りた。彼は残念そうな顔をしな がらも再び彼の道を過ぎ去っていった。申し訳ないとは思いながらも、僕は僕で 再び歩き出した。気付けば裸足のままであった。靴は河原に置いてきてしまった 。


僕はオンガクを聞くために歩いている。たくさんの雑音に耳をやられてしまわ ないうちに。その意味では確かに急がなければいけない。魂に届く音など、滅多 にありはしないのだから。


公衆電話があったので僕は電話をした。聞きなれた声が答えた。
タダイマ・ルスニシテオリマス
「・・・と、・・・と、・・・以外は、ぜえんぶ、捨ててくれ。」
ピーーットイウハッシンオンノアトニ・メッセージヲドウゾ
「別に、構わない。とにかく、無駄なものは全部、元の姿に戻してくれ。」
ピーーッ
「責任をとらない奴らを、ぶん殴ってくれ。」
・・・・・・・・・。
僕は電話を切った。すっきりするかと思ったが、よりいっそう腹が立った。僕 は受話器を引き抜いて、力の限り遠くへ投げた。コード付きの受話器はくるくる と威勢よく弧を描き、最近よく目にするコーヒー店のウインドウを粉々にした。
ガシャパリーーーン。周りの目は好奇に満ち、態度は無関心だった。


見上げると上弦がうっすらと目覚めようとしていた。腕時計を見る、月齢3. 2。もうあまり時間がないなと、僕は再び歩き出す。足裏が痛みを訴えてきた。


たまたま途中で出会った黒人女性と性交した。前途多難ではあったが自分をひ けらかしたおかげで、より開かれた血の腰使いがお披露目した。
モンゴメリーという名の彼女は、行為後に耳元で囁いた。
「私はバスに乗っただけ。バスに乗っていたかっただけ。」
僕は答えた。
「一段落したら、大きなイヤリングをあげたいな。何がいいだろう?」
彼女は再びバスに乗った。


性交後の全能感に包まれていると、ふと不安になった。僕はなぜ歩いているの だろう、と。中には、いや多くが目的地に向かって便利な道具を使ってワープす る。電車に飛行機、酒にドラッグ、ロケット・ネットワーク。
試しに走ってみた。最初はウォーキング程度から、徐々にスピードを増して。 空気抵抗が強くなり、耳の後ろで血流のドラムが激しく鳴り出すと、腕時計につ いた脈拍計測器は127という記号を表示した。あまり無理をするのもよくない なと歩を緩めると、僕の周りを覆っていた薄っぺらい膜がまた一枚剥がれていく のがわかった。すると先程抱いていた不安の正体もだいたい理解できた。そう、 目的地に向かうために歩くという手段を選ぶことに、僕自身が惹かれていたのだ 。


クイーンズ・スクウェアの下りエスカレーターに乗っていると、ガシャパリー ン、上からジャッキーが降ってきた。ガラスまみれになった彼に僕が言った。
「怪我は治ったかい?」
「治る怪我なんてないさっ。」
あっという間に黒服サングラス集団から逃げ去った彼に、もうひとつだけ言い たいことがあった。
「バスで行った彼女に、ルビーをあげようと思うんだ。」


ルビーのことを考えながら歩いていると、だんだん眠くなってきた。まどろみ は静かに月の子について語り始めた。 「月の子は、川の浅瀬で遊び、風に乗って、日時計の周りに石を並べる。
夜明けの幻と、かくれんぼしながら。
太陽の子の微笑みを待っている。」
月はもう半分目を開けていた。ふと振り返ってみると、月明かりに照らされた 僕の足跡にまだ新しい血が混じっているのがわかった。なぜだろう、血を見ると 痛みがやわらいだ。


アムステルダムのマクドナルドにいた。どろんとした目つきのジャンクフード ・ジャンキーだらけだった。
僕はチーズ・バーガーを貪りながら、行き交う顔に目を向けていた。様々な肌 の色、言語、笑い方が飛び交う光景の日常化はもうすぐそこまで来ているのだろ う。
そもそもは、自分がどこにいるのかわからなくなる異邦人の感覚が歩くことの 醍醐味だ。旅を続ける上で、僕は地図という必需品を頼りに街の川沿いを歩く。 川を歩き山を越えて、僕はいつの間にかたくさんの見知らぬ街に立つことだろう 。たくさんの匂いを吸収し、融合された僕自身を表現していくのだ。知らないと ころに行って、知らなかった自分を発見する、そうアインシュタインの感慨に匹 敵するくらいの。
そんな想いに身を馳せていると、目の前にブラッドが座っていた。彼はクウォ ーター・バーガーをもりもりと噛み砕きながら、マシーン・ガンのように喋り続 けた。
「消費と成功の追いかけっこが人生のすべてであるみたいに思い込まされている せいで、正常な感覚が失われているんだ。わかるか?
何も恐れないユーモアなんだ。どん底に落ちることも辞さないユーモアだよ。 何事にもこだわらない自由な発想ってとこかな。
でも実際には、変わり続けること、新しいことに挑戦し続けることでしか、人 は成長できないものなんだよ。同じことを繰り返すなんて退屈なだけだ。退屈っ ていうのは死と同じことなわけだからね。」
打ちのめされはしたが、歩くのをやめてはいない。くたくたになりながらも、 僕は再び始める。


人の数が増えてきた。月齢12.4。残り時間は少ない。
ふと声がした。
「死後の世界が幸福だとわかっているならば、みんな競って自殺する。」
声の主は猿だった。


目的の場所はもうすぐのはずなのに、細胞分裂的に増える人ゴミにもまれ、僕 は向かうべきところへ行きたくてもなかなか進むことができない。
オルタモントのことを思い出した。ヘルス・エンジェルスと聴衆との小競り合 いが、次第に暴徒化して死者を出した悲劇。僕は実際あの現場にいたのだ。いや 、それともブラウン管の向こう側だったか?
まっすぐ突き抜けていきたいのに、無駄に集まるゴミに押し潰されて横流しに されてしまいそうになる。僕は激しい激流をかきわけながら何とか前に進む。色 とりどりの頭髪がひしめく夢の島、その遥か彼方に見えてきた目的の場所。僕は まさにそこを目指し歩き続けてきたのだ。早く行かなければ・・・、早く行かな ければ・・・。


ステージ上には数え切れないほどの顔があった。何人もの見知った顔もあれば 、知らない顔もあった。もはやそこには名前などといった記号の入り込む余地も なかった。
ステージ前の広い空間にはどこにでもあるようなパイプ椅子がぽつんとひとつ 置かれていた。僕はひんやりと冷たいその椅子に腰掛け、足裏の血が乾いた部分 を伸びきった爪でポリポリと掻いた。
どうやら聞き手は僕ひとりだけのようだった。他に聞き手がいないのが何か申 し訳ない気がした。雑多なステージ上では、もう既に何かが始まっていた。ずい ぶん前から演奏は始まっていたみたいだった。

僕はじいいぃぃっとステージを見ていた。楽器を持ち演奏する人もいれば、何 か言葉を喋り続けている人もいた。バレエを踊る人もあれば、背の高い一輪車の 上で帽子からハトを出す人もいた。皆が好き勝手なことをし、あらゆる音や色を 奏でていた。演奏は時に啓蒙的であり、排他的であった。雑多に入り混じってい るはずなのに、それらのまとまりはとても調和のとれたものであった。それはお 互いがお互いの奏でる音を気遣い、きちんとしたリアクションとしての音なり色 なり踊りを返しているからだった。ぶつかり合いながらも均衡が取れ、バランス を保ちながらもそれぞれが突き抜けている。大きく大きな演奏会は、始まりもな ければ終わりもないものだった。皆はいつの間にかそこに参加し、いつの間にか 去っていった。
悪魔の仕業に耳を貸さない人たちは決まった時間に祈り続けている。教えの道 具とした人たちは同じフレーズを三回ずつ繰り返すところから始めた。辛酸を舐 めてきた吟遊詩人たちは唄うことで救われ、ホール内におけるポリフォニーが信 仰に救いの手を差し伸べた。たくさんの土着楽器が音の獲得欲求のために様々に その姿を変えていき、バロックのヒューマニストによって産み出されたカストラ ートたちは夜の女王に笛を貰ったことによって忘れ去られていった。作曲家たち は広い表現力を求めて楽器を増やして感情を露にし、時の事象をそのまま音にし ようとした。そして気付けば情報とカネのために過去に縛り付けられ、もはや夢 の世界を追い求めるしかなくなってしまった。
何百人もの指揮者が入れ替わり立ち代わり拍手を要求し、奏者たちが色とりど りの衣装に身を包んでカーテンコールをした。称賛は棚引く旗への敬礼と化し、 煽られた司令官は赤いボタンを押した。火を吹いて弾道を描くミサイルに迎合さ れたスタンディング・オベイションはより所のないヘイトクライムを産み出し、 マシーン・ガンに自らの命を託した。髪を伸ばして平和を唄い、そのために集ま ったはずが暴徒と化し、「平和のためだ」と殺した。何百人も殺して勲章を貰っ た男の孫が、ひとりを殺して終身刑になった。レインボーブリッジの下をくぐっ たミサイルの卵子に核が打ち込まれ、クローン・ミサイルがどこに落ちればいい のかわからず、その姿を変えて世界中に地下から這い出していった。ウィルスと してモニターに顔を出し、臨界として皮膚をただれさせ、「目印のない悪夢」と して都会の地下に大混乱を巻き起こした。
鼓膜を破ることなど辞さない音を聞かなくするために僕はリモコンでチャンネ ルを変えていた。サブリミナルな映像の転換に気付いた時には、既にステージは ブラウン管だった。すべてはバラエティな笑い声にかき消された。010100 11・・・・。
拉致されたはずのリモコンが再び僕を支配しようとしていることがいたたまれ なくなった。僕はただ生のオトを聞き、生のコエで笑いたいだけなのだ。チャン ネル眼鏡のマニュアル化など、いったい誰が望む?
僕は勢いをつけて頭からブラウン管に突っ込んだ。そういえばキース・リチャ ーズが高層ホテルのベランダからテレビを放り投げていたっけな。彼はテレビが 地面に叩き付けられた鈍い間抜けな音を聞いて笑ってたよ。
あいにく鈍い間抜けな音を僕は聞けなかった。


僕はうらぶれた田舎駅にいた。良き友であるルーランがマルセーユに転勤して しまうのだ。
彼の見送りには彼の家族や他の友人たちも来ていた。列車の時間が迫ってくる につれ、僕の寂しい気持ちはより深いものとなっていった。身寄りのない僕の面 倒をとてもよく見てくれた彼と別れてしまうのは、とても哀しいことだった。
でもルーランは悲しまなかった。ちょうどその日に受け取った一張羅の制服を つけ、別れが迫っているのに、彼が子供たちと、ことに小さな女の子を笑わせた り、膝にのせたり、唄を歌ってやったりしているのをみると、僕は心を打たれた 。
彼の声には不思議に澄みとおった胸に迫る音色があって、僕の耳にはやさしい しみじみとした子守唄でもあれば、遠くから聞こえてくるフランス革命のラッパ の響きのようでもあった。
僕はその時わかった。すばらしい音楽がそこにはあるのだということを。
ルーランを見送ってひとり家路の途中、僕はふと立ち止まってぎらぎらと照り つける太陽を見上げた。かかねばならない。あの黄色い太陽のような花を、かか なければならない。
僕は再び歩き出した。もう月齢を気にすることもない。
足裏の傷を時たま刺す痛みも、汗を存分に吸い込んだ麦わら帽の重ささえ、心 地良く感じた。

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